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ディスカッション
<自然観と宗教>
河田:
この問題提起は、果たして間に合うのだろうか。
古館:
におわせるのが大切。
松谷:
経済学から考えると、西洋文明(キリスト・近世以前)の結実した姿が市場。市場経済は社会をコントロールしている仕組みであるが、繁栄をもたらす一方で問題も投げかけている。市場は、人類を社会から分離している。人間を社会から分離させて一体化させ、行動を起こしたのが市民革命だ。その最大の道具は市場。西洋には「社会に対峙した存在としての自分」という考え方があり、それが市民革命や市場経済のもとになっている。逆に東洋では、「自然に対峙する存在としての自分」という考え方がある。東洋の考え方からは、市場は生まれなかったのではないか。
古館:
マーケット(市場)の中での評価の仕方が問題。自然環境(例えば海や空の美しさ)について、価格がつかないことが問題になっている。
松谷:
自然環境に価格がつかないのは、それ自体に希少性がないから。
古館:
(先ほどの話と絡めて)自我の形成後に、自我超越=無我が待っている。ところが、現代教育では、自我形成のプロセスを飛び越えて、無我にさせてしまうから。
松井:
市場の成り立ちに関しては、オランダに注目したい。オランダは資本主義の出発点。株の発想もオランダから始まった。市民社会の形成がすすみ、戦争ですら裕福な町民が支配していた。しかし現代は、環境面での発展が著しい。環境に関して、政権も変わるしEUも引っ張る。これはオランダの自然状態に由来する。オランダの狭い立地状態では重工業の発展は難しい。日本と似ている。土木技術者の作った国だと言える。自然は自分達で作ったもの。森林も、木を自分達で植えて、人工林をつくって、自然とした。
松谷:
株式は至上主義の出発点。封建時代までは、生産手段は社会全体の共有物であり、土地に密着していた。株にそれをくっつけて流動化、個人に転用したのが市民革命の出発点。土地の少ないオランダで発展したのも納得できる。
河田:
オランダは埋め立てに伴う既得権がない。漁業権もない。
松井:
漁業権は日本の特殊なもの。明治政府が作った。このために日本では、環境と漁業の関連を考えることについて遅れがある。
河田:
日本人は既得権を大切にする。
古館:
日本とオランダにある種のシンパシーがあったのではないか。
松井:
それがあったから400年も国交が続いたのではないだろうか。 宗教倫理と環境倫理の関係を以前論文に書いたことがある。今回の話は興味深かった。英語で宗教という意味の単語”Religion”は、ラテン語で「神と人のきずな」が原意。オランダ語では”Godsdienst”といい、これは
“Service to
god”という意味。このときのGodとは「唯一神」の意味。唯一という制約が西洋社会全体におよぶ。今欧州全体に神と人との関係を冷静に見直そうとする機運が流れている。ドイツ以南では生活とキリスト教との関係は比較的密接だが、ドイツでは半々、オランダ以北になると、キリスト教はかならずしも生活に密着しているとはいえない。
松谷:
分けているのは何か。気候も分けている原因のひとつではないか。
松井:
それもある。社会福祉をやらないと北欧では生きていけないからだ。
古館:
宗教とは「神と人」。仏教はある意味教祖信仰ともいえるのではないか。
<宗教的背景が与える影響>
松井:
仏教の生まれた背景について私はこう考える。インダス文明の流れが自滅、アーリア人侵入が始まる。アーリア人がヒンドゥー教の原型を持ち込んだ。しかしインダス文明を支えた人は高度な文明を持ち、アーリア人とのミキシングがゆっくりと時間をかけて起こる。この際ジャイナと釈迦が生まれる。そして、もともとあったウパニシャッドとの三つで宗教論争があったのではないかと考えられる。釈迦の発言が仏教の原点だが、この宗教論争で優位に立つために、死後には経典としてお経がまとめられることになり、さらにヒンドゥー教からマントラの概念を取り始める。だから仏教を考えるときはヒンドゥー教も考えなくてはならないと思う。
河田:
以前ネパールに行ったとき、仏教徒がヒンドゥー教徒に殺された。仏教に対するヒンドゥー教徒間の危機感がある。
松井:
「文明の衝突」ではないが、日本の仏教界がインドに入りつつある。ネパールは、チベット仏教系だから日本の仏教とはちがう。日蓮・浄土真宗は、ネパールの仏教との共通点はあまりない。
河田:
去年台湾とトルコで地震があったが、トルコは安定していた。みんな「アラーの試練」だと思い、精神的に安定している。台湾でも、仏教の教えが浸透しており、生き残った人は感謝の念を持っている。災害時に宗教はすごい力を持つと改めて思った。イスラム教・キリスト教世界では、災害は「神の怒り」と考える点がある。しかしアメリカでは危機管理の概念が違う。アメリカでは今“Hazard
Mitigation(危機の最小化)”の取り組みがなされているが、むしろ“Disaster
Mitigation”ではないか。アメリカ人は、自然現象のコントロールは出来ないと思っていない。災害は人災だと考えている。これは宗教観の差もあるのではないか。
松井:
アメリカは宗教的に混沌としている。
河田:
日本独特の考えに義援金がある。日本以外では、NPOやボランティアなど、被災者にケアを行うところに直接行っている。日本では義援金は被災者に行き、NPOは持ち出し。これでは長続きするはずはない。こういう仕組みは他には例が無い。トルコでは、都市周辺には食料的に自立している。救援組織がいらないぐらいだ。現地に行って驚いた。
松井:
歴史的にトルコは実力社会だった。帝国時代から、人種に関わらず優秀な人間を親衛隊として登用していた。その点、大災害のあとには神様が出てくる。「神様の怒り」。
河田:
無神論の日本では、文句は政府にいってしまう。
松井:
日本では、自然と人間との関係については神道の考え方と仏教の考え方の二つを使い分けている。自然観は日本神道、自分の人生については仏教観。自然は従来豊かであったので、恵まれた状態がじわじわと犯されても、危機感を感じない。自然に対する甘えがでてきているのではないか。
<川の水は本当にきれいか>
松井:
日本の湖沼・海域では70年代から水質は改善していない。水質改善のために莫大な投資をしたが全く改善していない。ただ河川の浄化だけが進んでいる。河川の浄化が進んでいるのに、河川と一体となる湖沼、海域での水質が改善していないのはなぜか。ここに環境行政のおかしな点がある。河川の水質指標のBOD(生物学的酸素要求量)と、湖沼・海域の水質指標のCOD(化学的酸素要求量)の意味するところのずれがある。湖沼や海に直接排水を流す場合、その排水処理場には、COD排水基準が適用される。 しかし、日本の工場廃水や下水は圧倒的にまず川に流され、そのあと湖沼や海域に流れ着く。川に流すとき排水基準はBOD値を利用して、その排水基準値を守るためにBOD値中心の排水処理技術が運用されている。しかし河川では、排水や下水などの汚染源にCOD基準が採用されていない。一見川はきれいになったように見えるが、実際はそうではない。
河田:
川の掃除をしても、あとは全部湖と海に放り込んでしまったということか。
松井:
河川の富栄養化にはBODが関わる。分解しやすい有機物濃度が高ければBOD値が高くなり、いわゆるどぶ川状態になる。しかし、有機物を構成するバクテリアが死んで、分解されればCOD増加に寄与する結果になる。CODが内部生産される状態。しかも、CODの中には環境ホルモン、化学物質が含まれる。これはバクテリアも食べない。 ここでまずいのは、日本人は世界に例をみないほどの魚食民族であるということ。歴史的には仏教も関わっているが。しかし、魚に蓄積されている化学物質に関しては言及しない。これには水産庁が関わっている。明治時代からいわれている「漁民保護」を名目として、魚の汚染物質に関しての情報を開示しようとしない。 そして農業についても問題。琵琶湖へ流入する、汚染物質源の分類を行った際のこと。もっとも汚染への寄与度が高いのが生活系の汚染源。例えば車の排気ガスによる大気汚染に由来するリンや窒素など。工業系、農業系の汚染源とつづく。しかし工業系の汚染についてはかなり規制が厳しいのに対し、農業系に関しては無策で、自主規制に頼っているのみ。
そして産業間のバランスが良くない汚染源としての寄与度は10%もあるが、滋賀県の農業出荷額(所得ベース)では全国の1%。経済的な寄与は皆無といっていい。 そして農業構造の問題。京阪奈の水は琵琶湖から取っている。農薬リスクを下流の水道に負わせている。だからリスクの分担をすべき。農薬を使わせない分、下流の人は無農薬のものを買うようにしたらよいのではないか。 対策として、まず農薬を減らすのが第一。田んぼから出る農薬を処理するというのも一つの手。公共事業であるパイロット事業・圃場整備によって、田んぼに水道パイプや排水溝を通したが、これによって、田んぼに窒素やリンをまくと、排水溝を通って河川や湖にそのまま全部流れてしまう。
松谷:
排水は大きなポイント。
松井:
日本の稲作はもともと谷の斜面を利用して行われた。湿地では農業は出来なかったが、ポンプ農業を取り入れて可能になった。これとは対照的に今、オランダでは湿地帯の復元をさせている。これで窒素やリンをトラップし、フィルターをかけようという取り組みがされている。
河田:
人口の増加とも密接な関連。人口が増えてきたから、湿地を田んぼにせざるを得ず、排水処理もしなくてはならない。
松井:
農業土木・灌漑・排水技術の向上のおかげで、生産効率はあがったが、排水処理についての視点が欠けていた。圃場整備の仕方が生産効率一辺倒だったため、逆に水質汚染・自然破壊を招く結果となってしまった。農業・環境行政の失敗ではないか。
<日本人の危機意識>
河田:
しかも日本は、失敗してもそれを認めたがらない。
松谷:
情報がクリアになっていない。
河田:
日本には仕事を進めた奴を傷つけたくないという面子がある。
松谷:
先輩のことを慮ってではなく、「役所は間違ってはいけない」という行動様式が日本の役所にはある。(一同納得)
古館:
企業もよく似ている。
松谷:
間違いを認めると組織の存在価値が無くなる。
河田:
社会の中にも役所の中にも最終判断は役所がすると思っているふしがある。
松谷:
国民も役所も、「情報を公開して選ばせる」ということは絶対やらない。
河田:
ケアできるのも役所だけ。「行政が何かしてくれる」という思いがある。 安全性を向上させるために、何か役所にやってほしいとき、日本は絶対に行政に文句をいうが、行政は「だったらそのかわりにもっと税金を出せ」とは絶対に言わない。
松井:
日本人は、その価値判断を変えなければならない。日本は、危機減少のために行政が何でもしてくれると思うが、その代償を税金として払うのだ。アメリカでは脱税は重罪だ。
河田:
日本ではやることがせこい面がある。被災したポートアイランドは完全に復旧させる必要はなかったのではないか。今まで使わなかった機能を復興させようとすることに莫大な公共事業費を投入している。リストラしながら復興、という考えがない。
松谷:
日本は災害に対して「気の毒がり方」がちがう。ウェット。
松井:
ウェットの原因は、日本神道と仏教のミックス。
松谷:
本来あるべきものが、なくなってしまったことに対してとてもウェットになる。でもそれでは遅いのではないだろうか・・・
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