「地球の危機管理と仏教、東洋思想」

発表:古館 晋(大阪ガスエネルギー文化研究所長)  

 今、人間(人類)は、地球環境問題などによって存続の危機に直面しています。このことは確かに深刻な問題ですが、一方で個々の人間も、社会や経済状態の変化によるさまざまな危機に取り巻かれています。「地球の危機管理」というタイトルではありますが、今日は、一人ひとりの人間の危機という観点から人類全体、地球の危機という問題を論じ、この二つの関わりを考えたいと思います。         

1、人間(人類)の危機と人間(個我)の危機 

 地球上60億人の人間(人類)は、現在さまざまな危機に直面しています。しかも現代においては、地震や洪水という天災だけでなく、人間自身の活動がもたらす負の部分によって、同じ人間が傷つき、または脅威にさらされる可能性が高まっています。たとえば1995年の阪神大震災において、多くの方が建築基準変更前の老朽化・密集した住宅の崩壊によって命を落としているということからも分かるように、現在私たちを取り巻く危機は、天災そのものというよりも、もとはといえば人間自身のもたらしたもの、すなわち人災という側面を強く持っています。人間の活動がもとで生じる地球環境問題や生態系の破壊、資源の枯渇問題、核拡散、地域紛争やテロの頻発などはその最たるものといえるでしょう。

 一方、人間のよって立つところを少しずつ危うくさせていくという意味で、間接的に人間全体の危機となっている現象もあります。物質的に十分豊かであるにも関わらず、さらなる消費へとかき立てられ、先進国に住む人々の欲望はまるでとどまるところを知らないかのようです。そして、日本でよく見られる学級崩壊や突然「キレる」子供たち、ストレスの増加、若者や中高年の自殺の増加に象徴されるように、物質的に豊かな社会であってもそこに住む人々は必ずしも精神的に豊かであるとはいえないのです。 では物質的に先進国ほど豊かでない途上国の場合はどうでしょうか。終戦直後の、食料すら乏しい状態のかつての日本において、アメリカがいかに豊かで幸せな社会であるかがことさらに強調されて人々のあいだに伝えられたように、今の先進国がいかに物質的に豊かであるかということが、人々の現在の生活との対比において強調されて伝えられているであろうということが考えられます。先進国と途上国の間だけでなく、今人口が爆発的に増加している途上国の都市の中でも、豊かな人と貧しい人の生活水準の格差は顕著です。一部の人たちが享受しているような「豊かな生活」を切望しつつも、手に届かないままスラムの中で貧困にあえぐ人たちもまた、精神的にすさんだ状態で日々を暮らしているのです。このように、今この世の中に生きている各個人は、知らず知らずのうちに内面からの危機に瀕しているということがいえます。

 無限の空間と無限の時間を持つ宇宙と対比して、個々の人間の認識できる時間、空間は無いも同然の小ささです。しかし、宇宙の膨大さからしてみれば無いも同然である「人間の時間や空間」も、個々の人間にとっては自分をとりまく世の中そのものであり、限りなく広くてどこまでも続くかのような感覚に陥ります。こういう、内的世界の延長として世の中を捉えざるをえないという人間の限界が、現在地球を取り巻いている危機と何らかのかかわりがあるのではないか、そのかかわりが何であるかを追求したいというのが私の考えです。

2、仏教、東洋思想(日本文化)と地球の危機管理 

(1)欲望の肥大化:知足 

 地球の危機、特に資源の浪費とそれによる地球環境の悪化を招く根本の原因として挙げられるのが先進国に住む人々の欲望の肥大化であります。現れた当初は物珍しく目新しいものであっても、長い間見つづけると珍しくも何とも感じなくなってしまい、また新しいモノを欲してしまう。このようにして私達は消費を加速させていきます。常にとりまいている情報によって、私達はモノに対して飢餓感に近い欲望を抱いてしまうのです。物質的に豊かでも精神的にそうではないといわれる所以です。 老子の「知足者は富む、不知足は禍」という言葉があります。これと同じ意味で禅にも「吾唯足るを知る」という言葉があります。知足は、「足らない(いま手に入らない)から我慢している」という消極的な意味ではなく、「足るものを味わう」、つまり今ここにあるものを十分に味わい尽くそうという、むしろ積極的な意味なのです。何かに追われるように消費に駆り立てられる今のこの世の中とは逆行するような考え方ではありますが、こういう「頭の切り替え」が重要となってくるのです。

 阪神大震災直後の避難所を体験した人は、普段の生活に戻ったときに「朝、水道から水が出る。湯が出る。」ということをどんなにありがたく感じたことでしょう。そこには「生きている」という実感があったのです。また、目が見えないある人の言葉の中に「次の世はたとえ虫であっても」というものがあります。次に生まれてくるときは、たとえ虫であっても構わない。数ヶ月の生命であっても構わない、目が見えてくれさえすればそこは天国であるに違いない、という意味です。 朝、蛇口をひねれば水やお湯がすぐにでることは、震災を体験しなかった人にとっては「当たり前」のことですし、目が見えるということは、視覚障害のない人にとっては「当たり前」のことです。ただ、幸いにも震災を体験せずにすんだ人も、「朝、水が出る、お湯が出る、ありがたい」と思っているとは限りませんし、目が見える人が「目が見えるから毎日が天国だ」と思っているわけではありません。しかし、ある人にとって当たり前であることが、当たり前としてそのありがたみを享受できない人がいるのです。つまり、ある人にとっては「今手に入らない」ものを手にしているにもかかわらず、そのありがたみに気がついていないのです。そこで、例えば目が見える人は、そうでない人が切望する「見える」という感動を味わおうではないか、ということが「足るを知る」という「頭の切り替え」です。これはすなわち、自分自身の考え方を変える「頭の切り替え」に他ならないのです。どこまでも満ち足りることの知らない自己の欲求を満たす。これを世の中の全ての人に対して実現させるためには、経済をはじめどんどん成長を続けていくしかありません。この「成長」こそがまさに現代のパラダイムなのです。欲求にしたがってモノを集め、貪る。そこへ供給するためのモノをどんどんつくるために、地球から資源を取って、加工し、分配する。「成長」の根底にあるのは、周囲を変えることで自らをハッピーな状態にしようとする考えです。しかし、自分自身の考えを切り替え、今あるものを味わうことで満足し、感動するということを知れば、余計なモノや不必要な消費はもういらない。「頭の切り替え」で自らをハッピーな状態へと昇華させる、精神の「成熟」が、従来までの「成長」に取って変わる新しいパラダイムとなり得るのではないでしょうか。

(2)西洋における思想、東洋の思想との対比

 成長から成熟へ、という発想の転換を行うための可能性を持っているのが、個々の人間の持つ思想です。特に、現代の物質文明を推進してきたともいえる、キリスト教世界の思想に代わる新たな思想が望まれています。その中で注目を集めているのが、仏教をはじめとした東洋の思想です。この東洋思想はどのような特徴を持っているのでしょうか。キリスト教を例にとって説明します。

・一宗教の中に両極端な性質をもつキリスト教と、東洋における「不争」の思想

 今までの歴史が指し示す通り、キリスト教には二つの面があるのではないかと考えられます。ひとつは、中世の十字軍が示すような、他宗教に不寛容な側面。イスラム教と対立・抗争を繰り返してきたことからもこういった側面を持つことがうかがえます。もうひとつは、イエス・キリストの「右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい」「隣人を愛せよ」という言葉に象徴されるような、寛容、平和主義的、かつ普遍的な側面です。これらはキリスト教の中において両極にあります。旧約聖書の持つ厳格な側面を、のちにイエスが解釈しなおしたという経緯からも、キリスト教がある意味両極の性格を持つということが理解できることと思います。一方で仏教というのは、その宗派内においても、他の宗教とも戦争をしなかったいわば例外的な世界的宗教であります。老子の「争わず(不争)」の教えや、ヒンドゥー教にも近い考えが根底にあります。

・自然と人間との関係

 聖書「創世記」の記述にもあるように、キリスト教世界では神−イエス−人−生物という秩序が存在しており、人々も「神は生物を人のために作り給うた」という上下関係を感覚として理解しているといわれています。進化の頂点は人間であるという考えもキリスト教的な考えでありますし、「人間はサルから進化した動物である」という進化論も、発表された当初はキリスト教の冒涜であるとして非難されました。東洋などでは比較的受け入れられやすかった「人間は動物の一種であり、自然の一部である」という考えも、キリスト教世界では受け入れられるのにかなりの時間と労力を必要としました。 一方で日本をはじめとする東洋諸国においては、仏教の不殺生の教えや、地域に根付く自然崇拝の影響により、生物や自然は人間と対等であるか、もしくは畏敬されるべき存在として考えられています。これらは、日本人が今でもご神木やご神体として木や自然物を信仰の対象としたり、花見や月見、紅葉狩りという風習を残し、四季折々に自然を楽しんでいるということからも言えるでしょう。

・二元論的考え方と無分別智

 二元論の世界では、論理的に「Aであり非Aであるもの」は存在しません。例えば、善でないものはすなわち悪であり、味方でないものはすなわち敵であるといえます。ところが日本人的感覚でいくとこの二元論ではうまく説明できない場合が往々にしてあります。特に形而上の世界においては、「Aでなければすなわち非A」とは言いきれない場合もあるのです。「この人は、色は黒いが美人である」と言う時や、「愚妻・愛妻」という表現は二元論の考え方では説明できないものです。二元論で説明できないものとして、「無」の概念があります。二元論において「無」とは「存在しないもの」以外の何ものでもありません。したがって「無」には価値がないことになってしまいます。しかし東洋思想の精神においての「無」とは、「存在しないこと」というよりもむしろ「既存のかきねを超越してしまった状態」のことを主に指します。たとえば「無数」とは文字通りに解釈すれば「数がないこと=ゼロ」となるでしょうが、実際にはゼロという意味ではなく、むしろ「数という概念を超越している」と考えることが出来るでしょう。 このようなことから、以下の図のような東洋と西洋の価値体系の対比ができることになります。そして、東洋思想における「無」の概念は、既に存在しているものよりも重く、広い意味をもつこととなるのです。

価値体系

西洋・近代 

禅・老荘 

競争価値、希少価値

 ◎ 

x

 効用価値、機能価値 

 〇 

 存在価値 

 △ 

 非存在価値 

 x 

                                                           

 二元論的世界では、存在するもの、存在自体が希少なものに大きな価値を認めます。一方で「無」に意味があるとすれば、存在するものだけに価値を認めるという考え方をとる二元論ではうまく説明できなくなります。存在しないもの、つまり目にみえないものに、価値や意義を感じることができるかどうかが、東洋思想の概念を受け入れることができるかどうかのちがいともいえるかもしれません。

(3)地球の危機管理と東洋文化は体系的に考えてみたい

 これまでに見てきたように、自然を愛で、目に見えないようなものの価値を大切にするという東洋の文化圏の中で、日本文化の特徴も育まれました。今なお拝観者をひきつける古刹の数々には、きらびやかな装飾も華やかな建築もないかわりに、質素で静けさに満ちた空間があり、それを愉しむのが特徴の一つとも言えるでしょう。これは、興奮や楽しみを追究する西洋の文化の特徴とは明らかに違う点です。しかし、近代化を経て、西洋の文化や思想を受け入れて経済的に発展を遂げた現代では、静寂と安らぎの追究だけが日本文化であるとはいえなくなりました。私達の誰もが、物的豊かさや利便性をある程度必要としつつ生活しています。逆に、日本は、東洋的な豊かさと、西洋的な豊かさを衝突させることなく融合させ、物の豊かさ・利便性をも実現した稀有な例といえるでしょう。 東西両方の文化の掛け橋とも呼べる役割を歴史上いち早く担ってきたということ、そしてそれが新しい価値観を作り出し、人間にもたらす可能性があるという意味で、日本人は、「人間の危機」の時代を乗り越えるための叡智を提供する役割を担うことができるようになるかもしれません。

(4)根源にさかのぼって

 2500年前の釈迦の悟りとは何だったのでしょうか。菩提樹の元で悟りを開く前、釈迦はその恵まれた環境にも関わらずとても不幸な状態であったといいます。彼の不幸は富や名誉、権力、王子という地位では補えないものだったのです。しかし、彼は悟りを開くや否やこの世でもっとも幸福な存在になり得たといえます。彼をとりまく状況的な変化はなかったものの、悟りという精神的な活路を見出した彼はその後活動的にそれを説いて人を幸福にさせることができました。ひいては、彼の思想や言葉は東アジア全体に大きな影響を与えるにいたりました。このように、周囲を見直す小さなきっかけがもとで個人が精神的な苦悩や荒廃から抜け出すことは歴史上よくあることです。そして一人でも多くの人が精神の豊かさにもっと価値を見出すことによって、物的な欲望にがんじがらめにならずに済めば、資源浪費や飽食という問題を解決するための糸口がつかめるようになるかもしれません。

 こうして、以下の仮説が成り立つのではないかと思います。「人間(個=かけがえのない私)の問題が解決されれば、人間(人類)全体の問題解決につながるのではないか。」このことを提起してみたいと思います。

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